2020年11月30日

創設者の言葉4「教育の原点は幼児教育」

 来る12月3日は本園の「創立記念日」です。昭和34年12月に県に認可され、翌年4月に開園されました。今年で61年を迎えることになります。
 ところで、認可される2年ほど前の夏のころでした。福原家では家族会議が開かれ、父福原毅が、幼稚園を創立したいとの意を、家族に伝えたのです。その時言った言葉が、標題の「教育の原点は幼児教育である。」との言葉です。
 こうして園創設に向けての父の活動が始まったのです。何しろ宣言はしたものの肝心のお金がないのです。それを何とかしようと奮闘が始まりました。そして、周りの人々のたくさんの善意に助けられ、県の認可、そして翌年4月の開園にこぎつけたのです。この間の父の苦労の日々は、我々の想像を遥かに絶するものがあったものと思います。
 一体父はいつごろから幼稚園をt造りたいと思ったのか。跡を継いだ時から頭に引っかかっていたのですが、創立50年の時に、父の履歴書を見る機会があり、昭和24年に幼稚園教諭の免許を取得していることを発見したのです。少なくとも園の創立の10年ほど前から幼稚園創立の思いを抱いていたことを知り、跡を継ぐ重みを思い知らされたのでした。
 創立記念日を前に、「教育の原点は幼児教育である」との創設者の思いを改めて心に受け止め、これからも皆様方のご理解とご協力をいただきながら、歩んでいきたいと思っています。
posted by ののはな幼稚園 at 13:19| 日記

2020年11月24日

創設者の言葉その3「武士は食わねど高楊枝」

 創設者の福原毅は、その後教育行政に携わりたいと大宮高校の教諭の職を辞し、市の教育委員に立候補し、当選します。教育委員として市の教育行政に尽力しますが、その後委員は任命制となり、任期満了とともに、退職します。その後、各種の名誉職などを勤めますが、収入は少なく、家族の生活を守るため、日々悩まされたようです。そんな日々の中で時々つぶやいていたのが、標題の「武士は食わねど高楊枝」の言葉です。その意味するところは、「たとえ貧しくとも、気位を持って生きる」という事です。創設者の福原 毅は、まさにこの言葉通り、志の高いやせ我慢の人でした。
 この間、福原 毅は、幼稚園の創立を心のうちに温めていたようです。そのことを当時の家族は誰も知らなかったのです。その後の事は次回のこの欄で書いていきます。


posted by ののはな幼稚園 at 12:00| 日記

2020年11月16日

創設者の言葉その2「情けは人の為ならず」

 創設者の福原 毅は、その後都城の小学校の教諭から女子師範学校の教諭になり、終戦を迎えます。戦後は、県の職員を経て、大宮高校の地理の 教諭に赴任します。生徒を愛し、授業に全力を尽くす姿勢や、その語り口や表情・地図を片手に持ち教室へ向かう姿等々、生徒からも大変慕われたようです。被写体としても魅力的で、写真部の面々が文化祭に出展したと思はれる大判の写真が数枚残されています。また、女子師範時代から生徒や同僚の方々が、よく自宅へ来られておられました。頼まれごとも多く、いったん頼まれると、その方のために全力を尽くし、昼夜を問わず出かけていく姿がありました。そんな父の健康を案ずる母は、たまりかねて意見をすると、よく口にしていた言葉が、標題の「情けは人の為ならず」の言葉です。
 寒い夜、自転車を引きつつ、自宅を後にしていく父の後姿を思い出しています。
posted by ののはな幼稚園 at 12:17| 日記

2020年11月09日

創設者の言葉その1「青年は過去を語るな!」

 早いもので11月も第2週に入りました。朝夕は冷え込み、街路樹は紅葉を増し、すっかり晩秋の趣です。 考えてみると、園の創立記念日の12月3日が近づきつつもあり、本日から12月にかけて本園の創立者である、「福原 毅」の思い・考え方等を、本人が日頃語っていた「言葉」を軸にして書いてみたいと思い、ここに記してまいります。私的なことも時折入るかもしれませんが、読んでいただくと嬉しいです。
 今回はその第1回目として、標記の言葉についてです。この言葉を語る時、それは若者は、常に未来志向でいなければならない、常に「未来を語れ」という事です。もう一つは、年齢に関係なく、過去を語りたがる人間は、青年とは言わないという意味です。恐らくこのことは、自分に対しての戒めであったかもしれません。常に前を向くことで自らを奮い立てていたのではないでしょうか。家族の一員として父を見ると、56歳で亡くなった父は、生き急いだのではないかと、残念な思いも致します。
 ところで、父「福原 毅」はそのモットーの如く、自らの生い立ちを語らない人でした。故郷の事や生い立ちなど一切を語ってくれませんでした。その後知りえた範囲で記すと、次のごとしです。
 生まれは奄美大島の離島「請島」です。今は過疎化が進み、人口は150人を切っている、本当に小さな島に生まれ、両親を早くに無くし天涯孤独になったと聞きました。青年期には代用教員をするなどを経て上京し、丁稚奉公をしながら夜学の大学を出て小学校の教員になり、その後親せきを頼って宮崎に定住することになり、時を経て幼稚園を創立することになるのです。父を知る人からお聞きした大島時代のエピソードを記しておきます。代用教員時代、父は「標準語運動」を行った、とのことでした。島を出た青年が都会で就職しても「言葉(方言)」でつまずき、やめて帰省してしまう現実を何とかしようと、取り組み成果を得たとのことで、その人によれば、「今でもその地区では標準語を話しており、お父さんの功績ですよ。」と聞かされましたが、今は方言重視の時代であり、評価は賛否の分かれるところです。このことからも父の正義感の強さや、実行力等の性格の一端がうかがえます。ついつい長くなってしまいました。今回はここまでといたします。

 
posted by ののはな幼稚園 at 12:37| 日記