2013年08月16日

夕涼み会2013が終わりました

 例年になく厳しい暑さが連日続きます。そんな厳しい暑さの中で、今年の夕涼み会は無事終了することが出来ました。
 当日はこの暑さを考慮して、みこしを担いで近隣を回る際に、園児の豆絞りの代わりにカラー帽子をかぶることと、いつもの給水箇所に加えてもう一か所設置する等の配慮を致しました。こうしたこともあり、年長の子ども達は、先生やおやじの会の方々の励ましを受けながら、元気いっぱいにみこしを担いで回りました。こんな子ども達の元気に応えて大人の皆さんの気持ちも大きくなったのか、お陰様で例年以上のお賽銭が集まりました。頂きましたお賽銭は、例年子ども達のために大型紙芝居等の教材を購入することになっています。ご協力いただいた皆様に感謝いたします。
 この間、おやじの会の皆さんを中心にやぐらの周りには紅白幕が巻かれ、マイクの設営、ちょうちんの設置等など、準備は着々と進められました。夕方5時前後になると、年中・年少・年少々の子ども達とその家族が次々と集まり、ジュース等の交換所や、子どものくじ引きの場所は行列が出来るお度の盛況となりました。こうした盛り上がりの中でやぐらの上から年長組の代表3人による開会宣言があり、祭は始まりました。はっぴ姿の年長組の皆さん、浴衣掛けやじんべえ姿の年中・少・少々組の皆さんによる歌や踊りから始まり、保護者の代表による早飲み競争等に打ち興じること約2時間。最後はやぐらの周りを年長組の担ぐみこしが回り、年長組の代表3人による閉会宣言があり、フィナーレとなりました。
 この暑さを吹き飛ばそうとの意気込みが伝わり、最高の盛り上がりとなりました。祭りの後の後片付けをしていただいたおやじの会の皆さんを始め、ご近所の皆さんのご理解とご協力にも厚く感謝申し上げます。
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2013年07月25日

園舎1階教室の床板張り替え工事が始まりました

 保護者の皆さまには「野の花だより7月号」でお知らせいたしました、標記の工事が、夏休みの始まりと共に予定通り始まりました。私は、園長と共にほぼ毎日出勤し、鍵開けから鍵閉めまで幼稚園で仕事をしています。
 先ずは教室に置かれていたピアノ等の重たい荷物の移動から始まり、1日目は解体作業がほぼ終わり、2日目からは、床板を支える垂木の設置、その上にコンパネ(通称ベニヤ板)を張り、その上に檜の床板を敷き詰めて完成となります。
 私はこの作業を毎日見るのが楽しみで、一つ一つの工程を、丁寧に仕上げて行く職人さんの凄腕に、ほれぼれしております。今のところ工事は順調で、予定通り、来週末には終わると思います。
 夏季保育に子ども達が登校する時は、檜の香りが迎えてくれると思います。楽しみに待っていてください。
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2013年07月10日

園庭プール物語

 梅雨明け宣言が出され、いよいよ夏本番を迎えることになりました。子ども達にとっては大好きな水遊びが存分にできることになり、霧島児童プールや園庭のプールでの活動も本格的になりました。
 そこで今回は、この園庭プールにちなむ話をしたいと思います。
 これも10年以上も前になるのでしょうか。わずか1年間しか在職されなかった園バス担当のW先生が発明した、プール排水用箱と、箱を置くゴム製マットのことです。それまでのプールの水の排水は、直接排水溝に流し込んでいました。そうするとどうしても園庭が水浸しになり、水が引くのに時間がかかり、子ども達の外遊びにも影響が出かねない状況も見られました。私を含む歴代の男先生達が何とかしようと試みたのですが、すべてうまくいきませんでした。そんな話を聞くと、何とかしようとの思いが強いW先生は、ついにこの用具を発明したのでした。お陰様で水は園庭に溢れることなくスムーズに排水できるようになりました。この時期になるといつもW先生のことを思い出します。W先生、本当にありがとうございました。
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2013年07月03日

父母のルーツ奄美への旅

 今から10年前の9月15日、私は万感の思いで故郷奄美の土を踏みました。実は10年前の6月ごろの新聞記事に、、奄美大島本土復帰50周年を記念して「奄美の歌者が集うコンサート」の入場者を募集との記事を見つけたのです。この間、沖縄には二度旅し、奄美を上空から見下ろしながら、奄美を訪れていない罪の意識を持ち続けていたのでした。今度こその思いで、息子と教師時代の友人を誘い早速申し込みました。ところが航空券を申し込むと、20番目くらいのキャンセル待ちの状態で半ばあきらめかけたのでした。そんな折の9月初めのある日のこと、航空会社からキャンセルが出たのですがいかがですか、との電話があり、すぐに応諾したのでした。
 そんなわけで3人の旅が始まりました。奄美空港で待つタクシーに乗り込み、瀬戸内町の古仁屋港を目指しました。途中観光の名所を訪れましたが、コバルトブルーの海の色に勝るものはありません。故郷の海はどこまでも青く深く澄み切っていました。やがて古ニ屋小学校の正門の前を訪れました。そこは母が教師として初めて赴任した学校でした。熱い思いが胸をよぎりました。そして、当日の最後の訪問地の古仁屋港に着きました。港の正面には、先週終了した、NHKドラマ「島の先生」の舞台となった加計呂痲島が見えました。実は私の両親で園の創立者の「福原毅と榮枝」の出身地は加計呂痲島のさらに南の「請島」の池地なのです。「そこまでは時間もかかるし、行っても人は少なし、知人はいないし」と、いとこの助言もあり、諦めたのでした。
 そして翌日の夜、名瀬のコンサートが行われました。熱気にあふれる会場で血が騒ぐのを覚えました。私の体と心はまさに奄美の血が流れているのだと、心が震えました。歌者が次々と登場し、最後に「元ちとせ」です。会場は最高に盛り上がり、私の熱い旅は終わりました。あれから10年、今度こそ本当の故郷「請島」への旅は、実現するのでしょうか。
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2013年06月17日

親睦ミニバレー大会がありました。

 先日の6月10日は親睦ミニバレー大会がありました。
クラス対抗で保護者の方々も楽しくプレーし親睦を深めた
ようです。

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2013年06月08日

「野良猫親子から教わる」

 昨年の5月初めのある日のことです。妻から自宅の玄関の横の隙間にある場所に、野良猫が子猫2匹を生み育てていることを知らされました。そして今回は、この親子を静かに見守りたいとのことでした。猫をあなり好きではない私に気遣いながら話してくれました。私も渋々同意しました。しかし、このまま住みついてしまったらどうするのか、と不安になりました。その場所を覗くと、確かに親猫の傍らに子猫が2匹横たわり、つぶらな瞳を見せていました。初めは覗くと、親猫が警戒心からか、睨みつけることもありましたが、その後は警戒心も薄れて行った様子でした。この間、昼となく夜となく、小猫の鳴き声を一度も聞きませんでした。親猫が、生き延びるためには決して泣いてはいけないよ、と教えているのだと、は妻の解釈です。やがて約一週間を過ぎたある日の午後、その場所を覗いてみると、野良猫親子は忽然と消えていました。今まで一度も動かず、ただ座ったばかりであった子猫がいないのです。今朝、新聞を取りに行った折に覗いた時には親子揃っていたのに、と不思議に思いました。「また帰ってくるよね。」と私が言うと、妻は「いや、もう帰らないのではないか、これは子猫の巣立ちではないでしょうか。」と云いました。
 その日も、翌日も妻の言うと売り、野良猫親子は姿を見せませんでした。それはまことに見事な巣立ちでした。親猫は、子猫の育ちのためにちょっとだけ、いわば軒先三寸を借りたのです。そして家主の恩義にこたえ、巣立ちの時を境に去っていったのです。この約一週間の野良猫親子の見事な立ち振る舞いに、感心もし、何かを教えられた思いがいたしました。
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2013年05月20日

「人前力を育む」

 本園では子どもに「人前力」を育むことに力を入れています。「人前力」とは、人の前で自分の思いや意思を表現したり、役割を果たしたりする力です。その力を育むために、日々の保育の場面や、運動会や発表会等の行事の中で取り組んでいます。今回は、年中組が行っている取り組みの一つを紹介します。
 それは、給食を事務室にいる園長や主任に、届ける当番活動です。この活動が始まったのは、今の給食の形式になった十数年前になります。当時の年中組の担任が、子どもに運ばせたことから始まり、その教育的意味を受け、今日まで続けられてきたのです。ところでその当番活動ですが、年中組の「みかん」組と「ばなな」組から指名されたその日の当番が、給食を乗せたトレーを持ち、入り口で「失礼します」と入室の許可を得て事務室に入り、園長や主任の前に給食を差し出し、「どうぞ、食べてください」と言います。園長や主任は、「ありがとうございます。○○ちゃんもいっぱい食べてね」等、お礼と励ましの言葉を添えて受け取るのです。その後当番は出口に立ち「失礼しました」とあいさつをして活動は終わるのです。この間担任が後ろで見守ったり、必要によっては言葉掛けをしたり、とサポートします。大人が見れば何でもないような流れですが、子どもにとってはこの一連の活動は、かなりのプレッシャーを感じるようです。入り口でもじもじしたり、言葉が出なかったり、先生の目を見てお話が出来なかったりします。しかし年中の終わりごろになると、ほとんどの子どもが声も大きくなり、活動もスムーズに行うようになってくるのです。日々の小さな取り組みの積み重ねが、子どもに「自信」を、そして「人前力」をつけて行くのです。
 今年の年中組も、もうすぐこの活動が始まります。楽しみに待ちたいと思っています。
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2013年05月08日

「不知火寮で学んだこと」

 昭和31年(1956年)、私は佐賀大学に入学し、大学の寮である「不知火寮」に入寮しました。旧制佐賀高等学校の伝統を持つ「不知火寮」で過ごした歳月は、かけがえのない友人を含めて私の人生観等大切なものを育んでくれました。数々の思い出の中から、その一つを記しておきます。
 寮には「ストーム」という旧制高校名残りの行事がありました。それは、寮生の仲間がふんどし一枚の裸姿で寮歌を歌いながら寮中を踊りまくるのです。踊る前にはリーダーが巻頭言の口上を述べます。迎える寮生はバケツに水を入れ、それを掛けて歓迎することになっています。行われるのは寮祭の時であったり、突然、ある日の深夜であったりしました。
 それは入寮間もない5月下旬ごろのある日の深夜のことでした。私ども同期に入寮した仲間約10名ほどが合い寄り、「ストーム」をして盛り上げようと始めたのです。先輩方の大方は大歓迎し、「今度の新人達は、なかなかやるなあ。」との声があちこちから聞こえ、その声に励まされて、私達の演舞は盛り上がりました。もう少しで終わりを迎えるという、その時でした。4年生の一人の方が、我々の前に両手を広げて立ちはだかり、「お前たちは俺の生きる権利を奪うのか。俺は朝4時に起きてアルバイトに行くことになっているんだ。」と云いました。私達は一瞬うろたえ立ち止まりました。すると、もう一人の先輩が現れ、「なんてことを云うんだ。彼らが折角盛り上げているのに、おまえは学生だけに認められていいロマンちゅうもんがわからんのか。」と我々をかばい、そのまま「ストーム」は続けられました。
 この出来事は私にとって衝撃的なことでした。私には二人の先輩の言い分のどちらとも分かるような気がしました。世の中は簡単ではないのだ。正義はぶっつかり合うこともあるんだ。少し大人になったような気がしました。
 「人は人の間で人になる。」と言われます。集団生活の中で、自他との折り合いをつけて生きて行くことを学んでいきます。大人も子どもも同じです。幼稚園の子ども達も、「自己主張」と「他者受容」、この二つの折り合いをどうつけたらいいか、今まさに学んでいるのです。
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2013年04月22日

[入園式そして春風が運んでくれたこと」

4月月14日には本園の入園式がありました。当日は青空が広がり、園庭のポールには鯉のぼりが勢いよく泳ぎ、新入園児の門出を祝っていました。式場には制作されたばかりの園旗が、日の丸の旗と並び飾られました。この日入園した39名の子ども達が、友達や先生と思い切り遊び「たくましく・しなやかな心と体」を育んで欲しいものと心から願ったことでした。その日から約一週間がたとうとしています。子ども達は、新しい環境に戸惑いながらも、集団生活の第一歩を踏み出しました。「共に育ち合う仲間」として、これからの成長を楽しみに待ちたいと思っています。
 一方、この3月に小学校を卒業し、中学校に進学した本園の卒園生の親子の同窓会が開かれ、本園の主任と当時の担任が招待されて出席いたしました。会では話題は尽きることなく本園での生活を懐かしんでいたとのことでした。春風が何より嬉しい便りを運んでくれました。

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2013年04月06日

「なつかしの昭和展」を観る。

 3月から県立博物館で開催されている標記の展覧会に行ってきました。展示は2期に分かれていて、第1期は「昭和の家族」と題して安部朱美さんの創作人形展、第2期は山本高樹さんの「昭和幻風景」と題するジオラマ展です。
 人形展では、私が生きてきた昭和の風景が表現されており、ちゃぶ台を囲んで3世代が食事をする風景や、夜なべをする母親の姿に目が留まりました。また、昭和を生き抜いた一人の女性教師と教え子たちとの交流を描いた、映画「二十四の瞳」を題材にした人形も展示されていました。今年はこの作品の木下恵介監督の生誕100年に当たり制作されたとのことでした。私はこの作品の原型となった同名の小説が単行本になる前に、我が家で取っていた毎日新聞社発行の「ニューエイジ」に連載されていて、父が読んだ後家族全員でまわし読んで、感動を共有していたのも我が家の昭和の時代の懐かしい思い出です。
 第2樹のジオラマ展では、昭和の街角の風景が展示されており、失われ行く風景と人物が見事に制作されていて、時間を忘れて見とれたほどでした。朝の連続ドラマ「梅ちゃん先生」のオープニングを飾った東京蒲田の街並みの風景も見事でした。そんな中で一番心に残ったのは、熊本人吉に戦後一人の宣教師によって創立され2006年に廃園になった「ひかり幼稚園」のジオラマです。園舎と園庭、そして教室の中には園児と先生の姿があり、我が園とダブらせながら魅入ったのでした。
 この展示を観ながら、「昭和」という時代の持つ温もり、そしてその時代の幼稚園の原風景を可能な限り受け継いでいきたいものと思ったことでした。明後日の4月8日は本園の始園の日です。それぞれに進級した子ども達一人ひとりの表情を想像している今の私です。
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2013年03月26日

春到来ー桜咲き鶯鳴く

 3月17日、福岡と共に全国で一番早く桜の開花宣言が出されました。また、その日には拙宅の隣家の植え込みの茂みの中から鶯の声を聞きました。いよいよ春の到来です。この間、幼稚園では17日に卒園式があり、22日には修了式を行い、今年度の教育課程の全ての締めくくりを致しました。 卒園式の翌日の18日には「みたま園」にある我が家の墓参りをして、父母に報告をしたのでした。墓地にある桜並木も見事に咲き誇っていました。
 春は別れの季節であると共に、進学・進級の季節でもあり、新たな出会いの季節でもあります。本園の新年度の始園式は4月8日、入園式は14日に行われます。どんな出会いが待っているのか、楽しみに心待ちしている今日この頃です。
posted by ののはな幼稚園 at 13:13| 日記

2013年03月16日

別れの時を迎えて

 去る3月7日には園児全員がリズム室に集い、「お別れ会」が行われました。会では卒園する園児の皆さんと、年中・年少・年少々の皆さんとの歌やゲームの交換、そして卒園式で卒園生が身につける、在園児による手作りのコサージュが、卒園する皆さんの代表に手渡されました。園を巣立つ園児、園に残る園児、それぞれ気持ちを伝え合う場面での言葉のやりとりに、成長の姿を見て嬉しく思いました。その後、この日のために園が用意したオードブルを各テーブルで異年齢の園児が囲み、談笑しながら美味しくいただき、心もお腹も満腹になりました。
 そして、いよいよ明日17日に卒園式を迎えます。
 「今日はよい日うれしい日・・・」私の大好きな卒園式の歌が会場のリズム室に響き、卒園生40名一人ひとりの晴れやかな表情が目に浮かびます。
 卒園式の後は、父母の会が主催して謝恩会が開かれます。お休みの土曜日の今日の午後に「おやじの会」の皆さんが集まり、毎年恒例の出し物の準備をされることになっています。ご協力に感謝の気持ちで一波tです。

 明日の卒園式が思い出に残る素晴らしいものになりますよう心から祈っています。
posted by ののはな幼稚園 at 11:34| 日記

2013年03月05日

百田尚樹氏の「永遠のゼロ」を読みました。

 息子に薦められ標記の本を読みました。近来まれに見る感動を覚えた作品に出合い、ここに紹介する次第です。
 祖母の死後、孫に当たる姉弟に実の祖父がいたことを、実の祖父と信じていた祖父から告げられたことからストーリーは展開します。実の祖父「宮部久蔵」は、終戦の数日を前にして、神風特別航空隊(特攻隊)の一人として零式戦闘機を操縦し、アメリカの航空母艦に突入して最後を遂げた、というのです。姉と弟の二人は祖父の実像をたどるべき、祖父を知る戦友会の紹介で数人を尋ねて行くのです。
 ある人は命を惜しむ臆病者であったといわれるが、その後、彼が何よりも家族を愛し、そのために何としても生き延びたいという強い願いを持っていたこと、そして優れた操縦術を持つ勇気あるパイロットであり、同僚や部下にこよなく尊敬される人であったこともわかる。その彼が、最後に自ら志願して死線に向かったことを知らされる。
 という筋書きであるが、「宮部久蔵」のまれにみる人物像と取り巻く人々の純粋な心に打たれ、度たび涙することでした。この小説の「エピローグ」に凝縮された、人を尊敬することの意味をかみしめたことでした。
 ところで特攻隊のことについては、鹿児島の知覧の記念館の遺書を見た時の衝撃を思い浮かべると共に、私にはもう一つの思い出がありました。それは戦後間もなくのことです。門司にいた叔父から父に「特攻隊」生き残りの二十歳前後の若者6名が、宮崎大学農学部を受験するので数日宿を貸してほしいとの依頼があり、受け入れたのでした。彼らは実にさわやかな方々で、いつお一緒に行動し、物の修理をしたり、当時残っていた防空壕を埋め立てもしていただきました。戦後の食糧事情の悪い中で、母が作った食事をおいしいおいしいと言って食べていました。ある日の食卓のことでした。戦争のことが話題になり、父が思わず「生きていてよかったですね。」と云った時でした。彼らの表情が一瞬こわばり、リーダー格の人が「私達はそんなことは考えたことはありません。今でも生きていることを戦友に申し訳ないと思っています。」と答えたことを覚えています。父も言ってはならないことを言ってしまったことを恥じ入り、表情も曇りました。
 後日、彼ら全員が不合格であったと、叔父から知らされました。そんな理不尽なことがあるのか、幼いながらも胸を痛めたことが思い出されます。

 機会があれば、「永遠のゼロ」を読んでいただければ嬉しいです。
posted by ののはな幼稚園 at 17:21| 日記

2013年02月18日

マラソン大会に寄せて

 明日予定されていた幼稚園の「マラソン大会」は、お天気の関係で2月22日に延期することになりました。子ども達はこの日のために一生懸命練習を重ねてきました。どうか当日が青空が広がりますようにと願っています。
 ところで、マラソン大会が今のようなスタイルになって今回は3回目になります。それまでの大会は、お別れ親子遠足の際、そのプログラムの一環として実施していました。子どもの体力づくりを目指す幼稚園としては、何とか独立した大会はできないものかと考え、園創立50周年を機に今の様な形にしたのでした。
 そして迎えた大会に胸は高まりました。近くの「祇園運動広場」という場所もよし、お天気もよし、そして何よりも主役の子ども達の晴れやかな表情に安どしました。それぞれの学年ごとに子ども達はさわやかな風を受けて走りました。その姿に感動を覚えました。保護者の皆さんも熱く盛り上げていただきました。保護者の皆さんによるスペシャルマラソンにもたくさんの方が参加していただきました。走り終えた皆さんの満足げな表情が素敵でした。そのスペシャルマラソンを一層盛り上げていただいたのが、Rちゃんのおじいさんでした。(おじいさんといっても60歳前の方ですが)その方は、スーツを脱ぎ、ネクタイを外し、レースに飛び込むや、見事な走りでコースを駆け抜けゴールしました。まさに圧巻のレースでした。その素晴らしいサービス精神に心打たれました。「マラソン大会」が近づくとあのシーンが蘇ります。今年の大会はどんなドラマが展開するのか、今から楽しみです。
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2013年02月04日

石井十次の母に思う

 先日は久方ぶりに県立図書館に行き書籍に目をやり、しばし思索の時を過ごしました。その後、隣の文化公園を一巡した折、ふと公園北寄りに建つ郷土の偉人石井十次の銅像に目が移りました。文化公園に来ると必ず目に入る風景ですが、この日は何故かその存在を強く感じました。銅像は二人の子どもを伴い、右手を前方に指差しており、子どもの未来を見据えているかのように感じました。石井十次については小学校の頃から父からよく聞かされていました。日本の社会福祉の先駆者であり、「孤児の父」と言われていたことも教えてもらいました。そうしたこともあり、私が現役の高校教師をしていた頃、同僚とともに西都にある「石井記念友愛社」を訪ねたこともありました。当時の児島理事長から十次の思想と実践についてのお話をお聞きし、その偉大さを実感したことを覚えています。いつの日か、十次の娘婿の児島虎三郎画伯が、十次の最大の理解者である大原孫三郎の援助を受けて多くを収集したとされる「大原美術館」を訪ねたいと思ってはいますが、いまだ実現されていません。
 ところで十次が幼き時、お祭りの日に母から身につけてもらった下ろしたての帯を締めて祭りに行った折に、縄の帯を身にまとい泣いている子どもに、自らの新しい帯と縄の帯を交換し帰宅した十次に驚き訪ねた母に、事の次第を話すと、母は、「あなたはとても良いことをしましたね。」と十次をたいそう褒めたという。このエピソードにある十次母子の如くにはなれませんが、少しでも他を思いやる気持ちを持ちたいと思うことでした。

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2013年01月21日

「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」

 1月7日幼稚園の始園式があり、3学期がスタートしました。丁度正月7日にあたり、主任から「今日は七草粥を食べる日です。ところで皆さんは七草の名前を知っていますか。」と問いかけましたが、当然ながら答えは返ってきませんでした。そこで主任は、一つでも覚えてね、と言って七草の名前をすらすらと挙げていきました。恥ずかしながら私は、そのうち四つほどしか覚えていませんでした。日本の風習が薄れつつある中で、子ども達に伝えて行くことの大切さを改めて思ったことでした。
 主任の話を聞きながら私は、標記の蕪村の俳句と七草の一つである「なずな」を冠した、長崎にあった知的に障がいのある方々の共同生活の場である「なずな寮」のことを思い浮かべていました。主宰する近藤原理先生は、障がいのある方々と、共に生活をしながらその心に寄り添い一人ひとりを「よく見る」ことの大切さを教えられました。その一方で先生は、「よく見ないことも大切です」とも述べられていっます。
 「よく見る」ことと、「よく見ない」ことは正反対のことの様に思えますが、この二つのことは、障がい児教育においても、幼稚園教育においても、いや全ての教育にとって大切な考え方ではないかと思っています。
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2013年01月07日

2013年年頭に思う

 
 新年明けましておめでとうございます。今年が子ども達とご家庭の皆様にとって、幸多い1年でありますよう祈念いたします。
 ところで皆さん、お正月はどのように過ごされましたか。私はもっぱら家に引きこもり、テレビで毎年恒例の箱根駅伝を観ていました。過酷なコースを大学生の若者たちが繰り広げる姿に、いつも感動していますが、今年も数々のドラマがありました。途中棄権の悔しさに泣いた中央大学と城西大学チーム。棄権をした選手の胸中やいかに、と慮りました。そうした中で見事30年ぶりに優勝したのは日本体育大学でした。この勝利のために全力を尽くす若者たちの姿に、元気を貰いました。
 そしてもう一つ、帰省した息子から借りて1冊の本を読みました。それは昨年のオリンピックのボクシング競技で金メダルを獲得した村田選手の書いた自伝的なエッセイです。私は表彰式で照れくさそうに控えめな態度でメダルを受ける姿に、敗者を思いやる日本人の立ち振る舞いの原点を見る思いで、大変感動したのでした。ここに書かれていたのは、道を踏み外そうになりながらも、大好きなボクシングと尊敬する恩師に導かれて今日に至った彼の姿が描かれていました。「このメダルは僕のものじゃない。恩師の武元前川先生こそ貰うべき人である。」とのコメントは、彼の心の叫びであると思いました。教育に身を置く者として、改めて教育とは何か、を考えさせられた一冊になりました。
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2012年12月26日

復活プリンセスプリンセス紅白初出場

 先日、今年の紅白歌合戦に「プリンセスプリンセス」の初出場との発表がありました。実は私は今年の夏、NHKで90年代に活躍した人気女性のロックバンドの標記のグループが再結成され、復活コンサートへ向けて取り組むドキュメンタリー番組を見て大変感動したのでした。私はバンド名とヒット曲「ダイヤモンド」を知る程度でした。メンバーの一人が呼び掛け、これに応えて仲間5名全員がそろいました。解散後16年目のことで、彼女らはすでに40歳半ばの年齢を迎えていました。昨年の大震災で被害を受けた方々に、少しでも励ましの力になれたらという思いでの再結成でした。ただ16年というブランクはあまりにも長く、復活に向けての努力は並大抵のものではありません。特に音楽活動から離れ、受験期の子育てや家事に追われる日々を送るメンバーにとっては、取り組みは容易ではありません。練習はその合間を縫って続けられました。努力を支えるのは家族と仲間5人との共感し合う強い絆でした。そして迎えた福岡の野外ステージ。90年代、青春を共に熱く燃やしたかけがえのない多くのファンが迎えてくれました。ステージの上で彼女らは昔と変わらない、いや、それ以上に輝いて見えました。「やればできる」・「共感できる仲間がいる幸せ」、それはきっと被災者の皆さんに届いたことでしょう。この番組を見る前に、たまたま読んだ本に、「共感する力は、人間にしか存在しないものである。」と書かれていました。この共感する力を育むために、幼児教育にさらに力を注ぐべくまい進したいものと思ったことでした。
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2012年12月03日

父の履歴書ー53回目の創立記念日に寄せて

今年の発表会も子ども達の晴れやかで伸びやかな姿は、会場の皆さんに元気と感動を与えてくれました。翌日の今日「12月3日」は本園の53回目の創立記念日にあたり、園児の皆さんと共に園のリズム室に集まり、お祝いを致しました。
 ところで私は、気になりながらそのままになっていた、父と母の遺品の整理に最近取りかかっているところでした。するとどうでしょう、幼稚園創立当時に提出されたと思われる書類の控えの一部が見つかり、その中に父の履歴書が閉じられていました。それが下の写真です。履歴書を見て驚いたのは、父は昭和24年には幼稚園教諭の免許状を取得していたのです。幼稚園の創立は昭和34年ですから、その10年前になります。ということは、それ以前から幼稚園設立への思いがあったということを意味します。この履歴書を見ながら、幼児教育にかける父の強い意志に触れた思いでした。教師をしながら、夏休み等に聴講生として宮大に通う姿は、私もおぼろげながら覚えています。本日の創立記念日にあたり、改めて父の意志を・父の思いを、受け継いでいかなければならないと思いました。
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2012年11月24日

「空襲のこと、そして父のこと」

 現在宮崎日日新聞に掲載中のシリーズ自分史は、元南九州大学教授山本友英先生が「自然と人と音楽と」と題して書かれています。その11月18日付第12回目の文章に目が留まりました。そこには以前、このブログで書きました、昭和20年5月11日に私が遭遇したアメリカ軍による空襲のことが書かれていたからです。
 先生は宮中在学中で和知川原にある自宅に帰宅中「女子師範の付属小学校付近に爆弾が落ちたことを知らされ、、、」と記され、文章の最後に「当時、父は男子師範の教師で、名古屋の軍需工場に学生と動員されていましたので、家には、母と3歳の弟と私だけでした。その頃、名古屋への空襲も激しく、動員された生徒が数人亡くなったのを手紙で知りました。」と書かれていました。
 その記述は、当時の私の家族とほとんど同じ状況を物語っていました。私の父は当時、女子師範学校の教師をしており、山本先生のお父さんと同じく、生徒を引率して名古屋の軍需工場で働いていたのです。きっと、山本先生のお父さんと私の父が、生徒の生命を守るために、日々連携をとっていたのではないかと、想像したのでした。戦争の時代の辛く、そして悲しい思い出です。
posted by ののはな幼稚園 at 14:27| 日記